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Laurent Perrier

ローラン・ペリエ

ローラン・ペリエの写真1 ローラン・ペリエの写真2 ローラン・ペリエの写真3
URL http://www.laurent-perrier.com
設立 1812年
本拠地 Reims(ランス)
当主 Alexandra de Nonancourt(アレクサンドラ・ド・ノナンクール)
畑の総面積
資料提供 Fwines


❦ 詳細・歴史

1812年に創立したローラン・ペリエは、現在世界で有数の優れたシャンパンメゾンの一つとして知られています。この成功には二つの秘訣があるのです。
第一の秘訣は、長い伝統により築かれた“信条”を貫く事でした。“信条”とは、自然を尊重しワインを尊重する事、品質を追求する事、そして人を大切にする事です。 人を大切にするのは、メゾンで働く人のみならず、ローラン・ペリエに関わる全ての人を大事にするという事です。
もう一つの秘訣は、前当主であるベルナール・ドゥ・ノナンクールが、家族経営に徹する事で、メゾンの独自性と価値観を今日まで変わらず保ってきた事です。 この“信条”は、ベルナール・ドゥ・ノナンクールが逝去した後も、脈々とメゾンの全ての人に引き継がれています。 “独創性のある自由な精神”によって創造性あふれる数々のシャンパンは誕生し、ユニークで高い評価の商品ラインアップ(Pleasurable Wines)が出来上がりました。 シャンパンの愉しみ方を素直に追求する事で生まれたローラン・ペリエのオリジナリティあふれるラインナップは、あらゆる機会、あらゆるシーンにぴったりです。 シャンパンの魅力と喜び。ローラン・ペリエのラインナップは様々な個性をもちつつ、共通するメゾンの揺るぎなきスタイルを持っています。 その個性の違いと、その根底に流れるゆるぎなき根幹の思想を知り、様々なシーンで実際に愉しむ事で深い味わいと更なる喜びを発見できる事でしょう。

1812年に元樽職人であるアンドレ・アルフォンソ・ピエルにより、シャンパーニュ地方のトゥール・シュル・マルヌ村に、ローラン・ペリエの前身となる一つのネゴシアンが興されました。彼を継いだシェフ・ド・カーヴであるウジョーヌ・ ローランと彼の妻であるマティルド・エミリー・ペリエの姓を一つにしてローラン・ペリエというシャンパンメゾンの名が生まれました。マティルド・エミリー・ペリエは、夫ウジョーヌ・ローランの死後、懸命に働きメゾンを発展させました。1920年には最大マーケットの一つであるイギリスへの輸出を開始し、世界的ブランドへの道を歩み始めました。しかし、彼女の死後、世界恐慌などにより、会社は傾きかけてしまいした。このような状況下で、メゾンに救いの手を差し伸べたのが、マリー・ルイーズ・ランソン・ドゥ・ノナンクールです。

1939年ローラン・ペリエの経営を掌ったマリー・ルイーズ・ランソン・ドゥ・ノナンクールは、世界第2次大戦中、レジスタンス運動に二人の息子たちを送り出しながら、メゾンの再興のために尽力いたしました。次男ベルナール・ドゥ・ノナンクールは、戦後1945年シャンパーニュに戻り、シャンパン造りそのもの、セラーでの仕事、そして営業などシャンパン造りに関わる様々な事を4年間の厳しい修行により学び、1948年10月に母親の後を継ぎ、ローラン・ペリエの経営の指揮を執る事となりました。彼が28歳の時でした。

シャンパンに対する情熱、伝統、自然、そして何よりも「人」に対する敬意を尊重し、ベルナール・ドゥ・ノナンクールはこの小さなメゾン(当時の販売量80,000本 シャンパーニュメゾンの中で98位)の革新を開始いたしました。経営を掌る前の修行のおかげで、シャンパンメゾンでは極めて稀な「現場の仕事に精通している経営者」でした。様々のぶどう栽培業者との固い絆、伝統と革新を融合したシャンパン造りへの飽くなき追求。それにより、「フレッシュさ」「エレガントさ」「バランスの良さ」というメゾンのスタイルを確立し、独創的なラインナップにより、今日では世界147カ国に輸出する世界指折りのメゾンにまでに引き上げました。2010年10月29日に永眠するまで、ローラン・ペリエのメゾンの、シャンパーニュの顔としてその手腕を発揮し続けました。彼のそのスピリットは、娘であるアレクサンドラ・ペレイル・ドゥ・ノナンクール、ステファニー ・ムヌー・ドゥ・ノナンクール、そしてミッシェル・ブレール率いる経営陣に引き継がれています。


❦ 畑

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❦ 醸造

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