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Takeda Winery

タケダ・ワイナリー

タケダ・ワイナリーの写真1 タケダ・ワイナリーの写真2 タケダ・ワイナリーの写真3
URL http://www.takeda-wine.co.jp/
設立
本拠地 Kamiyama(上山市)
当主 KISHIDAIRA NORIKO(岸平典子)
畑の総面積 15ha
資料提供


❦ 詳細・歴史

蔵王連峰のふもと、山形県かみのやま温泉からほど遠くない、東南斜面に約15ヘクタールにおよぶ自家農園をもつ、タケダワイナリーの歴史は大正時代にさかのぼります。
タケダワイナリーのオーナー武田家の祖先は、もともと山形市沖の原の大地主でした。そこから家系は枝分かれしてゆき、現在の社長は五代目にあたります。

そのファミリーの三代目の重三郎は、これからの商品作物としてぶどうにいち早く着目し、その栽培に適した土地を探し求めたのでした。ようやく、この上山に東南向きの日当たりの良い土地を見出し、ぶどうを約5ヘクタール植えつけます。
そして、1920年(大正9年)、当時としては、画期的なワイン(ブドー酒)を作り始めるのです。そのワイン工場こそが、タケダワイナリーの前身となる「武田食品工場」なのです。
武田食品工場のワインは「金星ブドー酒」と名乗っていましたが、まだまだワインの需要の小さい時代のこと、そればかりを生業とはできず、青果物商も兼業しておりました。そのころ、四代目で現社長の父である重信が生まれるのです。多くの果物が目の前で流通され、また自分の土地では毎年しっかりしたぶどうが実り、それを「ブドー酒」にする・・・、そのような環境で重信は育ってゆきます。

武田食品工場は、第2次世界大戦の戦禍も免れ、重信は、東京農業大学醸造学科に入学、醸造試験場にて研鑽を積むこととなります。ここで、大きな出会いがあるのでした。
ある日、試験場の担当指導官が重信達に、フランスワインをご馳走してくれたのです。銘柄はボルドーの一級ワイン「シャトー・マルゴー」でした。

重信は「世の中にこんなにうまい、ぶどう酒があるんだ。」と感銘を受け、「自分もそれを目指したい。」と、思ったのでした。
山形に帰った重信は、さっそくヨーロッパ系のぶどう品種カベルネ・ソービニョン、メルロの栽培に取りかかります。しかし、植えても植えても、栽培は成功しませんでした。そんな試行錯誤の中1974年、「武田食品工場」が火災に遭い全焼してしまうのです。

重信は、これを機に兼業の青果物業を一切やめ、ワイン専業に切りかえる決心をし、「タケダワイナリー」という新社名と、本格的ワイン醸造所としての新工場の青写真を残し、単身ヨーロッパに渡ります。ワイン用の醸造機械の買いつけが一番の目的でしたが、重信にはもうひとつの目的があったのでした。それは、フランスボルドーの一級シャトーの土壌を調査することです。
帰国した後これを解析、火山灰の粘土質酸性土壌というヨーロッパ系ぶどうヴィニフェラ種には適さない日本の土壌の性質を見据え、自社畑の土壌改良に着手します。数年後には、タケダワイナリーの土地は、中性からアルカリ性のぶどう栽培に適した土壌に変わっています。その方法は、土を入れ替えたわけでもありませんし、当時最新の化学肥料を使う方法でももちろんありません。もっと土の本質に根差した有機的な方法を用いたものでした。
この土壌改良のおかげで、カベルネ・ソービニョン種、メルロ種やシャルドネ種の栽培に次々と成功、着手した20年後には、やっと学生時代に夢見た「ブドー酒」が出来あがったのでした。念願のワインには、「シャトー」を冠し、「シャトー・タケダ」としたのです。1990年のことでした。

タケダワイナリーの歴史を考える時、重信のぶどう栽培への情熱はさることながら、しかし、その業績を影になり日向になり、皆の中心にたって支える者がいたはずです。
それが、妻の良子でした。彼女は上山市より北西の寒河江市の富裕な商家に生まれ、小さい時より“良い品物を扱うこと”を見て触れて育ったのです。嫁ぐまでは、実家の店で、天性の商業センスで敏腕をふるっていました。ワイナリーに来てからは、それを生かし資金繰はもちろん財務、経理の近代化を行い、ワイナリーのPRに携わり、見学コースをつくるなど、ぶどうとワイン造り以外に関するワイナリーの発展は、彼女に負うものが大きいといえるでしょう。その良子が一番印象にあるのは、火災時のことです。「その時、タケダはもうだめだと言われたのよ。でも従業員さんは誰一人辞めずについてきてくれたの。うれしかった。」会社とは人だという良子らしい言葉です。
タケダワイナリーは、1989年に日本で初めての本格的ないわゆるシャンパーニュ製造に成功します。昔から女性が好んだシャンパン。タケダワイナリーのそれは、ドメイヌ・タケダ《キュベ・ヨシコ》と名づけられました。キュベとは、意訳すればその人のために造ったとでも言えるでしょうか。この名を決めたのは、他ならぬ重信でした。

歴史を考えるときに、もうひとつ忘れてはいけないのは、次世代へつなげて行くということでしょう。1989年、タケダワイナリーでは、新しい時代がはじまろうとしていました。重信と良子の長男である伸一が三年のフランス修行を終えて帰国したのです。
伸一は、父と同じ東京農業大学醸造学科卒業後、単身フランスへ渡ります。ボルドーの一流ワイナリー「シャトー・ボンテカネ」で2年間、実際ワイナリーの中に入って、ボルドーの本格的なぶどうづくり、ワイン造りを習得したのです。オーナーのテッスロン氏はよく言います。「伸一ほど熱心に忠実に、我々の技術を習得した者は稀である」と。その後、瓶内二次発酵の発泡ワイン(いわゆるシャンパン)が有名な、ロワールの「シャトー・モンムソー」にて研修。ここでも、大きな成果をあげ帰国します。
伸一帰国後、タケダワイナリーの酒質はますます高品質となっていきます。もうおわかりでしょうが、「シャトー・タケダ」「キュベ・ヨシコ」の実現には、まさに伸一の大きな功績があったのです。しかし、歴史は簡単に行かないようです。1999年、伸一は突然の事故でこの世を去ります。

いくら悲しんでも、ぶどうは毎年確実に実をつけます。伸一の遺志を受け継いだのがその妹典子でした。典子は、玉川大学農学部農芸化学科卒業後、ちょうど伸一帰国後の1990年にフランスへ渡っています。彼女も小さい時からワインに魅せられた一人でした。フランスではフランス国立マコン・ダヴァイ工醸造学校上級技術者コースを専攻した後、醸造学者ジャック・ピュイゼ主催のフランス国立味覚研究所にて研修、そしてボルドー大学醸造研究所ティースティングコースを修了し、1994年に帰国しています。タケダワイナリーでは兄のもとで、ワイン醸造家として働いていました。

兄の死をきっかけに原点にもどってタケダワイナリーを見つめる決心をします。
典子は言います。「まだまだ試行錯誤ですが、土の特性、気候の特性を掴んでそれを生かしたぶどう造り、ワイン造りをしていきたいのです。」「それを見つけるには、自然と共に、体と頭と感性・・・五感をフルにつかって仕事をすることなのでしょうか。」
現在は約15ヘクタールになった美しいぶどう畑と、「武田食品工場」時代からのベテラン、ワイン造りに引き寄せられた若いスタッフ18名と共に、発見の毎日です。

また、最後にこう言いました「兄が生前よく言っていたんですよ、『だまっていてもぶどうは毎年毎年実る、ワイナリーは繋げて行くことが大切なのだ、我々は歴史の礎にすぎない』と。」


❦ 畑

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❦ 醸造

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